ミトンブログ

岡山市中区高屋のパン屋、mittenのブログ。

3.11のあと

2011年3月11日、東日本大震災

あれから7年の月日が流れた。

 

あのとき私は、

埼玉のパン屋で働いていた。

 

震災による埼玉の被害自体は、

それほど大きかったわけではない。

けれども、

その日から何気ない日常は激変した。

 

コンビニやスーパーの棚からは、

瞬く間に食料品が消えた。

計画停電によって知ったのは、

それまで当たり前にあった便利さである。

 

もちろん、

パン屋を取り巻く日常も一変した。

 

コンビニやスーパーの商品が消えると、

百貨店内のパン屋には、

いつも以上の人が殺到した。

店のオープン時間前、

デパ地下の入口に押し寄せる無数の人々。

その光景には、

さながら映画のワンシーンのような

恐怖感さえ覚えた。

 

彼らが求めるのは、

おしゃれなデニッシュでも、

変わり種の惣菜パンでもない。

 

皆が我先にと手に取るのは、食パン。

食べやすくスライスするのも

追いつかないほど、

とにかく食パンが売れた。

 

むしろ、

食パンのスライスなんて必要ないという人が

ほとんどだった。

 

その理由は明白。

いつ起こるともしれない余震の影響で、

火の使用は極力避けられる。

さらに、

計画停電によって満足に電気も使えない。

 

火を使わないでも、

調理や味付けなしでも、

食べたいときに少しずつ食べられる。

スライスしなければ、

それなりに日持ちもする。

 

こうして、非常食となった食パン。

計画停電の中、

いつ電源が落ちるかも分からない

オーブンと睨み合いながら、

私も必死に食パンを作っていた。

 

ときには、

物流機能がマヒした影響で

一部の材料の調達が困難となる。

それでも何とか、

自分たちの足で材料をかき集め、

食パンを作り続けた。

 

 あの日からしばらくの間、

食パンは嗜好品などではなく、

間違いなく、生活必需品となっていた。

街からは、

「パン屋巡り」なんていう言葉は消えた。

 

私の中でも、

パン屋の仕事に対する価値観が少し変わった。

それまで、

焼きたてで美味しそうなパンを出せば、

お客さんも喜ぶと

どこか軽く考えていたパン屋の仕事。

 

しかし、

鬼気迫る様子で食パンを求める人々を見て、

今まで感じたことのない

何か重たいモノが心の中に落ちた。

3.11のあとの日々に、

私は、

パン屋の仕事の本質を見たような気がした。

 

まちのパン屋は、

今日も食パンを作る。

 

あれから7年が過ぎ、

今は、

どこでも

食パンが当たり前に買える日常がある。

 

パン屋だって、

レジャー施設や

アミューズメントパークのような

店づくりをすれば、

簡単に多くの人を喜ばせることができる。

そんな時代である。

 

けれども、

私たちには、それができない。

あのとき気づいた、

何気ない日常の儚さが、

あのとき痛感した、

当たり前の便利さが、

今も記憶に甦ってくる。

 

岡山という、

自然災害がとりわけ少ない場所においても

それは変わらない。

だから、

まちのパン屋は、

何気ない、

普通の食パンを大切にしている。

 

かと言って、

なにも食パンが

生活必需品だと言いたいわけではない。

 

まちのパン屋が

大切にしている豊かさ。

それは、

食パンを

色んなアレンジで食べることができる

何気ない日常の中にあると思っている。

 

当然、大災害が起きることなんて望まない。

ただ、

この日常にある豊かさを

食パンに乗せて、

一人でも多くの人に伝えたい。

 

3.11のあとは、

今も確かに

ここで続いている。


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